新古美術 朝比奈

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Collections作品紹介

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大燈國師横嶽山退院頌
Poetic verse of a scripture

作家名 江月宗玩
Kougetsu Sougan
手法 紙本・墨
寸法 本紙21.6×37.5㎝
総丈103.0×46.6㎝
備考 ・サイン「宗玩 謹拝書」、印「東漸」
【原文】
衲子従来無定迹 天涯海角任情遊
一毫頭上辞華洛 三鼓声中出九州

大燈國師横嶽山退院頌
※衲子・・・衲衣 (のうえ)を着けた者の意で、特に禅僧のこと。衲僧。のっす。
※天涯・・・空のはて。
※海角・・・海のはて。
※横嶽山・・・崇福寺のこと。
※華洛・・・にぎやかな都。京都のこと。

【読み】
衲子、従来定迹(じょうせき)無し
天涯海角、情に任せて遊ぶ
一毫(いちごう)頭上に華洛を辞し
三鼓声中(さんくせいちゅう)九州を出づ

【現代語訳】
禅僧というものは、元来尻をすえるところがない。
天の果てから海の隅まで思いのままに周遊する。
一本の毛の先に乗って京都を離れ、太鼓が三つ鳴る間に九州を出ていく。

【大燈国師(=宗峰妙超)(1282~1338)】
南北朝時代の臨済宗の禅僧・宗峰妙超の諡号。
播磨の人で京都大徳寺を開山した。
※崇福寺(大応国師開山で大燈は5世、江月は79世)

【作品背景】
元徳三年(1331年)、大燈が崇福寺から拝請(招かれる)を受けたが、後醍醐天皇は許さず、 大燈は師である大応ゆかりの地であるからと重ねて許可を願い出て、やっと100日の滞在という約束で住持した時の語録。
年譜によれば4月14日に入寺し、6月に大徳寺へ帰っている。
当時の京都~大宰府は随分と遠方であり、しかも僅か三か月のみの滞在であったにも関わらず出かけたのは、師の大応を偲んでの事であり、 お墓参りをしたかったのではなかろうか。
本作は大燈が太宰府の崇福寺を辞して京都に帰るに当っての偶作である。
※参考文献『日本の禅語録 第六巻 大燈(平野宗浄著・講談社刊)』
製作年 江戸初期
状態 表装ややうねり、本紙欠損箇所補修あり。
付属品 時代箱
略歴 【江月宗玩(1574~1643)】
安土桃山~江戸前期にかけての臨済宗の僧。茶人。
和泉堺に生まれる。父は、織田信長、豊臣秀吉に茶頭として仕えた津田宗及。
幼名、道丸のち春松。安名、宗丸。号、欠伸子、赫々子など。
天正16年(1588)、春屋宗園のもとで得度。剃髪して宗玩を名乗る。
慶長15年(1610)、大徳寺156世住持となり、1611年の春屋の死去により黒田家の菩提寺、大徳寺塔頭龍光院を継ぎ、字を江月とした。
筑前崇福寺、筑前興徳寺の三庵を再興、また大徳寺内に六庵を開き、そのほか筑前直方の雲心寺、博多の即宗庵、肥前平戸の小川庵を開き、肥前秋月の古心寺、山城大原の四庵など勧請され開祖を務める。
また、茶の湯を父の津田宗及、小堀遠州に学び、当代一流の茶人としても知られる。
石田三成、豊臣秀吉、秀次父子の寵愛を受け、紫衣事件では江月のみ赦免された。

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